手塚治虫の「火の鳥」を考える

投稿日時 : 2015-12-03 22:52:35

手塚治虫、この名前を知らない人はいないでしょう。「鉄腕アトム」、「ブラック・ジャック」など、数々の名作を描いてきた漫画界の神と言われた人です。この、「火の鳥」という作品には、命の尊さが表現されています。

題材の「火の鳥」という名前の通り、作中には火から生まれた鳥が出てきます。火の鳥は不死であり、火の鳥の血を飲んだ人も不死になります。そのため、この作品では、この血を巡って様々な事件が起こります。

血の欲しさから、争いを始め、自らの命をその戦場で落としてしまう人や、無理やり血を飲もうとした結果、火の鳥に焼かれて死んでしまう人などが出てきます。どの時代でも、不死になりたいという欲がある人がいました。

しかし、作中で、血を飲んだキャラクターも出てきます。そのキャラクターは幸せになったのかと言われれば、答えはNoでしょう。この先ずっと死ねずに生きていく、それがどんなにも苦痛なことかが描かれていました。これを見て私は、生きるということは、死があるからこそ精一杯生きれるのだと思いました。

「火の鳥」はこれらの他にも考えさせられるエピソードがいくつかあります。皆さんも気になりましたら是非読んでみて下さい。

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「死」を克服することはできるのか

投稿日時 : 2015-08-13 16:55:50

信仰を持つ人には怒られる考え方かもしれませんが、自分が思うのは、「魂」という概念は、人間が「死」を恐れるところから生まれたのではないかということです。

何千年も何万年も前から、人間たちは「死」を恐れ、文明を持ったあとも「死」を克服することはできませんでした。ここでいう克服とは、「不老不死になる」という意味ではなく、「死別」のもたらす恐怖や悲しみの克服ということです。

科学が発達し、さらに高度な文明を持つに至った現在も、人類は「死」を克服できずにいます。だから昔も今も「魂」は信じられ、「人の魂は死後、天国へ行く」という教えに救いを求めるのでしょう。

無神論者が多い日本人でも、お葬式を通じて、仏教的な「死後」をイメージすることで、ようやく愛する人の死を受け入れられるのではないでしょうか。たとえば自分の親が亡くなっても、きっと天国から見守っていてくれる。そう想像するだけで心は少し救われるものです。

そういった救済の概念がなければ、人は「死」というものを受け入れることは到底できないと思います。

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神道の墓

投稿日時 : 2015-06-01 11:45:50

先日春の彼岸の際に墓地へお参りしたんですが、その時に変わった名前が彫られた墓を見かけました。形は普通の墓と同じで、『○○家之墓』となっているところに『〇〇家之奥都城』と彫られていたんです。

他に『偲』と一文字彫ってあったり、『旅情』なんて書かれた墓石も見たので、「生前お城が大好きな人だったのかな?」なんて思ったんですが、最近墓参りに行った親戚がその墓に榊が備えられているのを見たと聞いて、神道の墓だと知りました。

気になって調べてみたところ、神道の墓は神社には作られないので宗派に決まりの無い霊園に建てられる事が多いそうです。神道では『死』は『穢れ』で忌むべきものなので神社の近くには置いてはいけないのだそう。

『奥都城』というのは、飛鳥や奈良時代の墓を差す言葉だったそうです。そんな時代から変わらない言葉が使われているなんて、なんだか不思議な気持ちになりますよね。パっと見た時には解らなかったのですが、墓石の先端も四角錐になっているとか。そして、焼香の代わりに玉串の奉納をするので、焼香台もいらないそうです。代わりに玉串の為の台がある様です。

線香臭くない葬儀なんて想像がつきませんが、線香にアレルギーのある方には助かりそうですね。昔からある方法なのに、あまり見たことがないのでこの国ではやはり葬儀というと仏教が一般的なんでしょうね。

『生きること』を現実的に見つめる

投稿日時 : 2015-04-24 11:36:59

『死生観』について考える上で、様々な視点があると思いますが、僕は“現実的な枠組み”に立って考えてみるのは大事なことだと思っています

これは別段、無宗教であろうとか、非現実的なものを排斥しようとか、そういった話ではありません。ただ、人間なら誰もが持っている論理性に基づいて「生死」を見つめてみれば、それはそれで、面白い発見があるんじゃないだろうかという話なのです。

人間は、大きく二つの視点を持っていると思います。

一つは、宗教観も含めた概括的な視点。

そして、もう一つは、論理性など誰しもが持っている性質に基づいた限定的な視点。

僕たちはよく「死生観」について話をするときに、前者を引き合いに出します。例えば、悪いことをしたら天国にいけないから、良いことをしようと言います。

ですが、これが、他者に責任を擦り付けているだけになっていないでしょうか。思考の放棄に繋がっていないでしょうか?

僕たち人間は主体を持っています。主体的である以上、僕たちはどのように生きるべきか、自分で考えなければなりません。そして、何を信じるべきかはその上で決めていくのです。宗教の教えはそうして初めて意味を持ちます。

問題は、前者と後者のバランスが取れているかどうかなのです。

葬儀にかける費用について

投稿日時 : 2014-07-12 18:17:04

この間、叔父の葬儀があって参列してきたんですけど、弔問客が次から次へ絶えることなく来ていて驚きました。確かに叔父は人脈が豊富な人でしたが、これほど派手な葬儀になるとは思いませんでしたね。

葬儀の後なんとなく生きることや死ぬことについて考える機会が増えてきたんですが、叔父ぐらいの盛大な葬儀を出すと費用はいくらぐらいかかるかなと思いました。ちょっと調べてみたら盛大なものになると200万円や300万円は軽くかかるという場合が多くて驚きました。

結婚式を挙げるのと同じくらいかかるなんて信じられませんでした。会場の花とかお坊さんを呼ぶお金とか香典返しとか何かと物入りではありますけれどね。自分がもし死んだら家族にそんな負担はかけたくないと思いましたね。

もう他界しているんだから家計に負担の少ない小規模な葬儀を出してもらえればそれで十分です。親を送るときには今までの感謝をこめて盛大に送ってあげたいですけれどね。

自分の葬儀にはどんな人が来るのだろうか?

投稿日時 : 2014-06-21 15:13:18

僕はいま大学生なんですけど、時々、自分が死んだらどんな人が葬儀に来てくれるんだろうかと考えることがあります。親しい友達や家族、同僚や上司とかかなと漠然と思いますけど、その時にならないと分からないことですよね。

祖母の葬儀に参列したことがありますが、僕の知らない人たちがたくさん来ました。祖母は生け花の師範をやっていた人なので知り合いが多く、葬儀もすごく盛大でした。確かにあんなにたくさんの人に見送られて逝くのもいいのかもしれないけれど、自分はどうかなって思いました。

僕は本当にごく親しい人だけでの家族葬がいいかなと今考えています。親族を中心とした参列者と本当に親しくしていた友人ぐらいが来てくれればそれで十分です。

葬儀ってお金もかかりますし、その後の挨拶とか香典返しとかもやることがいっぱいですからできるだけ小規模でやりたいと思いますね。まだ死について考えることは早いかもしれませんけど、僕の希望はこんな感じです。

一度きりの人生だから後悔の無いようにしたい

投稿日時 : 2014-05-16 12:51:20

最近「生きる」ということに真剣に考えはじめした。大学生にもなってそんなこと真剣にと思うかもしれませんが、これから社会に出ていく上で、しっかりと考えることって大切なように思います。

正直大学の講義をまじめに受けたからといってなにか役に立つとも思いませんし、だからといってだらだらと学生時代の貴重な時間を過ごしていきたいとも思っています。そんな環境にあるからこそ、人生について真剣に考えたんだと思います。

もし、ぼくが何十年というずっと先の未来にイメージする自分の葬儀に来てくれる仲間や友人たちが何十人と来てくれるような、そんな人生を過ごしたいなんて思っています。葬儀はちょっとたとえがわかりにくいかもしれないけど、人生を真剣に考えるとき、葬儀といった死にまつわることは避けられません。

そう生きていくかとは、どんな死にかたをイメージすることなのかもしれないですね。といえあえず大学生時代をくいのないような時間にしていきたいです。

葬儀の意味について

投稿日時 : 2014-04-25 23:10:15

最近、直葬といってお寺で葬儀をあげないで、直接火葬場で遺体を焼いてしまうことを選択する方が多いと聞きます。

葬儀を行って、高いお金を出して戒名の意味も知らずに、名前を付けられて、一体何の意味があるのだろうかと真剣に考えてしまいます。いったい葬儀はだれの為に、何の為に行うのかを生きているうちに考える必要があります。

生きているとはどういうことなのか。本当は生かされているという事に気づくべきだと、日ごろの生活から感じるところはたくさんありますが、不平不満を言い、感謝の気持ちを忘れて日々すごしていることに反省しなければなりません。

そういう意味では、生きていた時の感謝を表す意味も込めて、葬儀の意味もあるかもしれません。死んだという事を知らせて今までありがとうという気持ちを、残された友人や家族に感謝を伝える。これも一つの葬儀の役目かもしれません。知らないうちに死んで行くのは逆に残された人たちに、失礼なのかもしれません。形はどうあれ人生の最後には終わりを知らせる必要があるような気がしてきました。